昭和の名建築である「学士会館」(東京都千代田区)が年内をめどに一時休館となる。同会館を保有する学士会(樺山紘一理事長)が、住友商事と共同で再開発するためだ。同会館は戦前のクラブ建築の傑作として知られ、旧館は曳家して保存・活用される。その魅力や歴史的意義を、近代建築史を専門とする藤岡洋保東京工業大学名誉教授に解説してもらった。
同会館は、旧帝国大学(国立7大学)出身者の親睦などを目的としたクラブ建築で、集会室や食堂などの大規模空間から娯楽室、宿泊室まで多様な用途が混在する。岡田信一郎(1883~1932年)設計で自前の会館建設のためボーリング工事を予定していた日に関東大震災が起きた。震災復興の区画整理に伴う敷地変更などからコンペとなり、高橋貞太郎(1892~1970年)が設計者に選ばれ、1928年に旧館(SRC造地下1階地上4階建て延べ5700平方メートル)が完成した。
高橋は、日本橋高島屋や川奈ホテル、帝国ホテル新本館などの名建築を手掛け、ホテル設計の草分け的存在として活躍した。藤岡氏は「高橋は大胆なことができる性格で、学士会館もけれん味のない豪快なデザインだ。間違いなく代表作の一つ」と説明する。
L字型の敷地を生かす形で、左右非対称に各機能を配置した。1~2階に大空間を集約し、3階を小集会室、4階を宿泊室とすることで、上に行くに従って階高が小さくなり窓の高さも低くなる。「シンプルでありながら秩序が感じられる立面」(藤岡氏)に仕上げた。日本にモダニズムが導入され始めたころで、「過去の建築様式の適用を控え、よりシンプルなデザインにしようとしているあたりに、当時のデザインの特徴がうかがえる」と藤岡氏は解説する。
外装は、地下部分と地上1階を基壇として扱い、当時の新製品の人造石「富国石」を貼り付けた。アーチ状の正面玄関周りは富国石を周りよりも高く配置し、入り口へと導くように目立たせている。上層は当時流行の茶色のスクラッチ・タイル張り。持ち送りの側面だけに装飾を施し、それ以外は平滑な面で、1階エレベーター脇の柱にはパネル状の人造石を鋲(びょう)止めしたデザインとした。旧談話室(現・食堂)の暖炉など内部空間も魅力的だ。
藤岡氏は「デザインだけではなく、技術的にも高く評価される」と指摘する。耐震構造などの先駆者だった佐野利器(1880~1956年)が監修しており、旧館の柱のほとんどにH形鋼を採用した。
H形鋼の国産は1961年からであり、当時としては革新的だった。「2階の大集会室や大食堂の幅をできるだけ大きくするために、米国からH形鋼を輸入して全面的に取り入れた。建築技術史の面からも注目すべき事例だ」(藤岡氏)。
地下には松杭を密に打って地盤を固めている。最先端技術があってこそ、現役の建物として生き続けている。
利用者の増加などを踏まえ、37年には藤村朗(1887~1953年)の設計で新館(SRC造地下1階地上5階建て延べ3637平方メートル)が増築されている。藤村はより堅実なデザインを取り入れた。藤岡氏は「設計者は本音の勝負が大事。テイストが違うのは当然だ」と話す。新館は、再開発に伴い解体される。
「旧館は高橋作品だが、それは1人ではなくある集団を指している」と藤岡氏は言う。高橋は有能な部下に仕事を任せることで名建築を作り上げていった。かつては施主側も含めて、伸び伸びと仕事をさせるリーダーが多かった。藤岡氏は「今の世の中はルールが整いすぎ、制約が多くなって、冒険がやりにくくなっているのではないか」と指摘する。
安全や品質確保の重要性は十分に理解しつつも、「鷹揚(おうよう)さがなければ社会は萎縮してしまう。設計者がもっと腕を振るえる社会環境が望ましい」との思いがよぎる。旧館には、時代に即した挑戦を追求した熱意の痕跡がある。「現場を見なければ分からないことがある。時代背景や設計趣旨を理解した上で、旧館から学べることが多い。これからも多くの人に見てほしい」と期待を込める。
from 論説・コラム – 日刊建設工業新聞 https://www.decn.co.jp/?p=169741
via 日刊建設工業新聞
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