東京都杉並区の荻窪地区に、戦前3回首相を務めた近衛文麿(1891~1945年)の別邸「荻外荘(てきがいそう)」の一部が今も残っている。荻外荘は近衛内閣の運命を決める政治会談の舞台にもなった場。日本近代史を象徴する遺産として2016年に国指定史跡となったが、一部施設が移築されていた。そこで杉並区は近衛が暮らした当時の姿に復元することを決定。24年の一般公開に向け、7月には竹中工務店の施工で復元工事が始まる。
荻外荘は荻窪駅の南東に広がる住宅街に位置する。完成は1927年で建築家の伊東忠太(1867~1954年)が設計した。日本建築の伝統である書院造り風の間取りに、洋風の生活様式を取り込んだのが特徴。洋風建築の採用は大正天皇の侍医で、創建時の所有者だった入澤達吉(1865~1938年)が欧米式の生活スタイルを望んでいたためとされる。
1937年に入澤家から近衛家へ譲渡され、38年ごろに別棟と蔵を増築。以降も増改築を繰り返し近衛の存命当時には、敷地東側が玄関・応接間・客間の施設群(総延べ202平方メートル)、西側が居住棟・別棟・蔵(同410平方メートル)の配置となった。2階建ての蔵以外は全て平屋。現在は西側の居住棟・別棟・蔵が敷地内に残っている。
「建物の歴史的、建築的価値を一層高め、次世代に確実に継承できる」。田中良区長は復元の意義をこう説いた上で、「伊東忠太の住宅思想の結晶ともいえる造り、間取りにも注目してもらい、日本の歴史や文化について考えるきっかけになれば」と期待する。
戦後は長らく近衛の次男、通隆さんの居住宅となり、60年には東側の建物群が豊島区の天理教教団施設内へ譲渡、移築された。2012年に通隆さんが亡くなると、保存を求める地元の要望を受けた区が敷地全体を取得。復元に当たり移築されていた東側の施設群を買い戻し、解体を経て、元の場所での再建に向けた準備を整えた。
増改築で建物が変化し続けたため、復元の基準年はあえて統一せず、部分ごとに特徴ある年代の空間を再現。大部分の建屋は政治会談の舞台だった1941年ごろ、別棟・蔵は増築時の38年ごろの姿をよみがえらせる。居住棟内にあり45年12月に近衛が死去した書斎は、遺族が手を加えず近衛存命時の状態を守り抜いてきた。そのため45年当時の空間として保存、公開を決めた。区都市整備部の星野剛志副参事(荻外荘担当)は「三つの年代が合わさったハイブリッドな復元になる」と胸を張る。
歴史的建造物の復元作業には課題も少なくない。国指定史跡となったため、敷地内の地下に残る古い基礎構造物を一切撤去できないという事態が発生。復元の設計を担当した文化財保存計画協会の柳澤礼子さんは「新たな給排水や電気用の配管を地下のどこに通すかが検討課題だった」と振り返る。
遺構が地下深くに残る古代史跡とは違い、近代遺構ならではの難しさがある。例えば昭和初期に使っていたガス管などは全て遺構と見なされる。古い配管は老朽化し再利用できず、敷地内の基礎構造物も増改築を繰り返した経緯から複雑化している。調査を重ね、配管ルートの確保に何とか道筋が立った。
耐震補強の面でも課題が残る。古い基礎の上にかぶせる形で、建物の荷重を地盤へと逃がす耐震用の耐圧盤を設置するのは技術上可能だが、耐圧盤が露出してしまう。当時の外観を忠実に表現するため、耐圧盤の面積を可能な限り縮小し、建屋内にうまく収納する方法を採用。補強部分が見た目で分からないよう工夫を凝らす。
歴史的、文化的価値の高い荻外荘の復元は、家具や調度品、照明器具も含め細部までこだわっている。現存しない品は伊東や入澤、近衛らの関連資料を調査した上で、古写真をベースに再現する。外観から内装まで工夫を施す復元過程は記録映像などに残し、来訪者らに公開する。柳澤さんは「復元までの流れを知ることで、荻外荘への理解がより深まる」と強調する。
区は荻外荘の隣接地に追加用地(敷地面積449平方メートル)を購入し、荻外荘に関連する展示品を公開する展示施設も整備する。来訪者が休憩できるカフェを設ける計画があり、星野副参事は「歴史に興味がない人でも、何度も足を運びたいと思ってもらえる仕掛けを考えたい」と展望する。
source https://www.decn.co.jp/?p=143603
0 comments :
コメントを投稿